小野竜太郎【おの・りゅうたろう】岡山県岡山市
小野竜太郎プロフィール
Prolfile
岡山県岡山市在住
act@artistsalon.jp
1959年6月生まれ
19歳にて、初めて一眼レフのカメラを購入し、写真を撮り始める。
20歳の時、富士写真フィルム主催のモデル写真コンテストで初めて出品した作品が入選し、以来、アマチュアの 写真コンテストで数々入選したことがきっかけでプロを目指し、24歳にてプロデビュー。
25歳より、独学にてデザイナーを目指し、現在、写真とデザインで現役活動中。
デザインでは、作品が専門誌に掲載された。
現在、美工社デジタルクリエイツ株式会社を経営する傍ら、デザイナー兼フォトグラファー兼C.I. V.I.プランナーを兼務している。
岡山理科大学専門学校 映像情報学科 非常勤講師を10年勤務。
初回2002年~2005年 岡山県スクールインターネット博 第一次審査員を務める。
その他、学芸館高校にて講演等
2009年12月 富士ゼロックス岡山の依頼で「広告・宣伝における写真の重要性」というテーマでセミナーを開催。
他にも岡山、松山で画家 粟嶋美幸氏と絵画・写真の個展を開催する。
2010年11月2日 サロン・ド・ヴァンホーにて個展を開催。
小野竜太郎からのメッセージ
Message
私は、写真以外にも、グラフィックやweb、パッケージ、サインデザインなど多岐にわたり行っていますが、一番好きな分野はなんと言っても写真です。一枚の写真を撮るときの緊張感やその場の情景に溶け込む感覚、情景や被写体から語りかけてくるメッセージなど、写真撮影ならではの醍醐味は20代の頃から何ら変わっていません。ただ、年を取るに従って、その感覚は鋭敏になってくるように感じます。
今ではデジタルカメラの普及で簡単に取ることが出来るようになった感がありますが、しっかりした写真を撮ろうと思うとフィルムの頃よりもずっとシビアになっていると思います。様々な雑誌等で見る写真の品質は悪くなり、悲しく思うことが多くなりました。「この料理のネタはこんなに鮮度がないの?」とか、「料理人は一生懸命作っていると思うのに美味しくなさそう」とか、「この建築物を設計した人はたぶんすごい人だと思えるのに、とても貧相に見える」とか、「この街の情景はとても感動的なのに単なるスナップになっている」とか・・・・。もっともっと、写真を大切にしてほしいなぁーと思うこの頃です。
小野竜太郎 展示作品
小野竜太郎 展示作品
1.NIGHT ROAD
九州との玄関口、下関。この街には、おしゃれなスポットがいくつかある。カモンワーフもそうだが、駅前も夜になると様相が一変する。正面に見えるタワーが印象的だ。下関といったら「ふぐ」を連想するのだが、そのイメージとは違った顔が ここにはある。
2.風 月
ここは、奥津温泉奥津荘の離れの露天風呂。私は、この旅館の撮影を依頼された。これは、その時録った1枚である。私は、撮影後、この露天風呂に入った。三日月を眺めながら清流が奏でる水音や夜風を感じながら思った。日本は、なんと素晴らしい国であろうか。
4.OHMISHIMA PORT
山口県青海島ここは、漁師町。港には、出番を待っている多くの漁船がある。ちゃぷちゃぷという音とともに静かな時間が過ぎていく。潮の香りが、どこか懐かしく感じられるのはなぜだろう。そう思うのは、私だけであろうか。
5.愛媛 内子の町並み
古い町並みなら、倉敷にもある。でも、ここは、とってもナチュラルなのだ。歩いていると、何となくのんびりとできる。空気が違うのかなぁ・・・それとも、お天気が良いからかなぁ・・・昔の日本人というのも変だけれど何とセンスがよかったのだろうと思う。
6.路地裏の日常
尾道の商店街につながる路地裏の光景。私は、子供の頃、よくこんな場所で遊んでいた。鬼ごっこをしたり、ビー玉で遊んだり。近所の連中と何かしていた。こういう光景を見ると、なぜかそこに自分が遊んでいる姿を想像してしまう。
7.FASHION TOWER
広島 中心部 繁華街おしゃれな建物が並ぶ街。 広島は、史上最初に原爆の落ちた街。 中国5県の中で唯一の100万都市でもある。 いつも、訪ねてみてすごいと思う。 あの廃墟の中から、あの放射能のあふれる中から立ち上がった人たちの勇気と根性を思うとき人間は素晴らしいと思う。
9.街 路
ここは、広島。現代を象徴するかのような街の一光景。都市には、このような光景がいくらでもある。人間を引きつけようとするにおいがプンプンする。まるで、誘蛾灯に集まってくる昆虫のように人間たちも、集まるのだろう。思わず、想像をたくましくしてしまう。
10.RED IMPULSE
愛媛 面河渓。ここには、自然の生の姿がある。 何と厳しい世界かと思う。 写真は、木の根を写したものだが ものすごいエネルギー、生命力を感じる。そのくらいのものがないと生きていけないのか。 考えさせられてしまう。
わたしと写真
私と写真の関係の始まりは、中学2年の時から始まる。当時、私は親から借りたコダックのインスタントカメラを使っていた。シャッターを押すだけ。チッ・・という音と共にシャッターが切れる。簡単なものだった。
箱形のそのカメラは、プラスチックでできていて、当時でも決して良いものとはいえないものだった。ある日、クラスメイトのT君が学校へカメラをもってきた。学校で写真部に属し、写真が好きだったのだろう。私は、そのカメラを見て、一目で惚れた。かっこ良かった。たぶん、記憶は定かではないが、ニコンFだったのだろうと思う。彼は、そのカメラを自慢げにクラスメイトに見せていた。その時からである。私は、何時か、自分でお金を稼げれるようになったら一眼レフのカメラを買おうと思うようになった。
高校生活になって、しばらくは運動部でバトミントンに明け暮れたが、大学生になって、アルバイトをするようになり、貯めたお金で本当に一眼レフを買った。夢にも見た一眼レフのカメラ。中学生の時に見たカメラは、高級すぎて買えなかったが手に入れたのはキャノンのT-70だった。今でも、思い出す。うれしくてうれしくて、何度も何度もさわったあげく枕元において寝た覚えがある。
それからというもの、24時間、カメラを持ち歩いていた。何時、どこに行くときにも一緒だった。写真を撮りだしてから、サトウカメラ店に入り浸りになった。当時はまだプリント代が高く、1枚70円くらいだったと思う。それでも、毎週のようにどこか行っては写真を撮りプリントしていた。ある時、いつもそのサトウカメラ店の店頭で受付をしていたとても感じの良い「おばさん」が、「良い写真が撮れてるね」「一度、写真コンテストにでも出したらよいのに」と言ってくれた。
私は、今でもその人に感謝している。その人のその一言がなかったら、今の私はいないかもしれないと思う。その一言がきっかけで、写真コンテストに出してみようと思うようになった
初めてのチャレンジは、毎年5月にあった富士写真フイルム主催のモデル写真コンテストだった。その頃、1年で最も大きい写真コンテストで、応募者も多く、その写真コンテストに行くことになった。良く出入りしていたそのカメラ店で、確か「船橋 章」さんという素晴らしいセンスのアマチュアカメラマンほか、何人かのカメラ好きの方たちと共に行った。撮影は楽しくて、その時の様子は、この歳になっても良く覚えている。翌日、プリントして、どれを出すかで悩んでいたとき、その船橋さんがいくつか選んでくれた。その時教えてもらったことは、現在でも私の写真に生きている。私の師匠は、その方だと思っている。
現在、私は、カメラを握って33年になる。
プロとして名乗りを上げて、28年になる。
毎年毎年、写真というのは何と難しいんだろうかと思う。真実を写すと書く、写真は、本来は記録を残す要素が強いのだろうがいつからか、芸術の要素も持つようになった。ある時間、空間の瞬間をとらえ、封じ込める。何とおもしろいではないか。
最近、デジタルカメラが登場した。デジタルカメラは、写すことにおいてはフィルムカメラと基本的に何ら変わらない。しかし、表現の幅は、ものすごく変わったと思う。撮影した写真(データ)をコンピュータという絵筆を使ってそのまま再現することも、創作することもできる。まさに絵画の感覚だ。その景観や情景などから、自分の想像力を働かせ、コンピュータ(正確に言えばフォトショップというソフトウエアなのだが)を駆使し創作していく。「これが写真!?絵画じゃないの?イラストじゃないの?」のような表現も自由だ。
私は、デジタルカメラとコンピュータの組み合わせで、初めて本当に自分の表現したい世界を発見できたと思う。見た人が私の感動を感じていただければ、私は満足だ。デザインやプランナーとしての仕事、写真の仕事、等様々な分野を手がけてきたが、私は、ライフワークとしてこのテーマをやっていきたいと思う。
時代や技術と共に、写真表現のあり方も変わって良いはず。写真のあり方が、「これじゃないとダメ」なんてつまらないではないか。様々な表現の幅を持って、ますます楽しくなる。そんな世界をこれからも追求したい。デジタルフォトアート・・・と命名した。